Żakowski, Politologia; Polityka
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//-->SILVA IAPONICARUM日林FASC. XXIII/XXIV/XXV/XXVI第二十三・二十四・二十五・二十六号SPRING/SUMMER/AUTUMN/WINTER春・夏・秋・冬2010SPECIAL EDITIONJAPAN: NEWCHALLENGESIN THE 21ST CENTURYPosnaniae, Cracoviae, Varsoviae, Kuki MMXSilva Iaponicarum日林Kwartalnik japonistyczny / Quarterly on Japanology /日本学季刊誌ISSN 1734-4328KAROLŻAKOWSKIUniversity ofŁódź,Poland青嵐会の興亡史‐政策集団から派閥まで青嵐会は、血判をした政治家達のグループとして、1970年代に有名になった。右翼的な思想を抱いているその政策集団は、田中角栄と福田赳夫との間の 「角福戦争」 の最中、1973年に成立し、福田赳夫の「別働隊」と呼ばれていた。日中�½交正常化を始め、田中角栄の政策に強い異議を唱えていたからである。青嵐会の主な方針は、 自民党の維新、 自由主義諸�½との連携の強化、「教育の正常化」、憲法改正などであった。青嵐会の政治家は、特に1974年の日中航空協定に反対し、 自民党総務会で暴力を�½�うほど、その協定の締結に歯止めをかけようとした。1975年以降青嵐会の活動は弱�½�化したが、1979年にはそのグループの会長、中川一郎によって自身の自民党内派閥である「自由革新同友会」の旗揚げが宣言された。1980年代になると青嵐会の元会員は、重要なポストに就き、�½�らの政治姿勢はより穏健となっていった。本論文では政策集団としての青嵐会から派閥への道を考察してみたい。1.青嵐会成立の背景青嵐会の設立には、自民党内情勢及び対中�½政策の変化が大きく�½�響している。1972年の�½�藤栄�½�首相の引退とともに、いわゆる「角福戦争」が始まった。それは田中角栄と福田赳夫、二人の有力な派閥領袖の間の政権争いという意味である。�½�初は福田赳夫外務大臣が�½�藤後継抗争で優�½�に立っていたにもかかわらず、結局1972年7月の自民党総裁選挙で田中角栄に敗れた。田中角栄の勝利は、中�½問題を巧妙に利用した結果であった。自民党総裁選挙の1年前の1971年7月には、いわゆるニク�½ン・ショックが起こった。リチャード・ニク�½ン米大統領は、日本と連絡協議せずに中�½訪問計画を発表し、日本の政界に大きな衝撃を与えた。ニク�½ン384KAROLŻAKOWSKI・ショックの直後、経済界も世論も日中打開を強く期待し始めたが、台湾と太いパイプを持つ�½�藤首相や福田外務大臣は�½民の声に対応できなかった。 田中角栄は1972年5月に�½�藤派の�½会議員の過半数を引き連れて、自身の派閥の旗揚げをした後、親中の大平・三木・中�½根三派と協力協定を結んだ。その結果、1972年7月に自民党総裁および総理大臣に選ばれた(ジャコフスキ2009:495-498)。しかし中�½を訪問する前に、田中角栄総理と大平正芳外務大臣は自民党内の日中�½交正常化の合意を得なければならなかった。この問題について党内議論を�½くすために、自民党政務調査会の中�½問題調査会が日中�½交正常化協議会に拡大されたが、実は、この協議会は親台派議員の猛烈な反対発言の舞台になってしまった。中川一郎、渡辺美智雄を始め、数多くの右翼政治家は、日華断交に全面的な異議を唱えていた。中華民�½との�½交断絶は相手�½に非礼であり、田中内閣が大陸中�½に全面的な降伏を意味するという批判を述べて、ジュース瓶や灰皿などが飛び交うほど、 対中�½接近に激しく反対した (田村、 豊島、小枝2000:160)。結局、1972年9月に親中派と親台派の間の妥協の結果、日中�½交正常化基本方針が採決された。早坂茂三によると「若手タカ派の軟化はすべて田中の非公式な個別説得によるもの」であった(早坂1993:419)。自民党は日中�½交正常化を承諾したにもかかわらず、「わが�½と中華民�½との深い関係にかんがみ、従来の関係が継続されるよう十分配慮のうえ交渉すべきである」という留保が日中�½交正常化基本方針に含まれた。このような曖昧で巧妙な表現を利用することで田中総理が自民党内対立を少しでも緩和したことは否定できない。しかし、その後「従来の関係」という表現の解釈問題が現れてきた。親台派は「従来の関係」 には外交関係も含まれると解釈したが、 親中派の主張は「従来の関係」というのは、経済・文化・社会関係という意味に過ぎなかった。1972年9月29日の日中共同声明調印の直後1、 大平外務大________________日中共同声明では、 台湾問題に関して、 次のような条項があった: 「中華人民共和�½政府が中�½の唯一の合法政府である。(…)中華人民共和�½政府は、台湾が中華人民共和�½の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本�½政府は、この中華人民共和�½政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項にもとづく立場を堅持する」(毛利2006:75-76)。1青嵐会の興亡史‐政策集団から派閥まで385臣は記者会見で「日中�½交正常化の結果といたしまして、台湾と日本との間の外交関係は維持できなくなります」と明言した (田村、 豊島、 小枝2000:179)。親台派はこの発言によって基本方針が破られたと主張した。田中と大平による「裏切り」は青嵐会成立への主な刺激になったといえる。浜田幸一によると:「日華平和条約の廃棄に�½�っては、�½会の審議を経ないのでは憲法違反になる」(林1984: 322)。青嵐会の代表世話人になった中川一郎が強調したとおり:青嵐会結成の原動力は、角さんへの失望感と反発だった。青嵐会メンバーのうち福田派以外は、ほぼ全員が昭和四十七年の総裁選挙で角さんに投票したんだ。(…)僕なんか、お世話になった福田さんに土下座して謝ってまで、 角さんに一票を投じた。�½�藤栄�½�の長期官僚政治には�½民も�½きがきていたし、我々も息がつまって、�½�とか状況を打破したかった。(…)ところが、 首相になった途端に角さんは豹変した。 �½連とちがって、誰一人として抑留しなかった敗戦日本の恩人・蒋介石を切り捨て、共産中�½との�½交回復に転じた。(…)これじゃあニッポンはつぶれて共産化しちゃう、と思った。(河内2009:46)青嵐会の座長になった中尾栄一は蒋介石への「信義の欠ける」行為を「エコノミック・アニマル」の行動と呼んで、青嵐会結成の「直接的原因になっているのは、昨年の田中内閣が成立して間もなく起こった中�½ブーム」であると示した(中尾1973:24-27)。青嵐会は1973年7月17日に成立した。 会員は自民党�½会議員31人(福田派から10人、中�½根派から9人、椎名派から4人、水田派から3人、三木派から1人、 無派閥4人) であった (河内2009:37)。会の名称については色々な提案、例えば「�½を捨てる会」「血みどろになる会」「泥をかぶる会」があった。結局有名な小説家で政治家の石原慎太郎の提示が承諾された。石原の説明によると、青嵐会というのは:386KAROLŻAKOWSKI夏の嵐という意味なんだ。夏の嵐には雷鳴�½�き、稲妻は光り、驟雨が火がつくように降るんだ。そのあとは必ず、すっきりした青空が見えるものなのだ。新緑みな甦る。生きとし生きるものに、皆、生気を与える。活力ある澄んだ社会をつくるのが青嵐会なんだ。(塩田1988:163)血判も石原慎太郎のアイディアであった。塩田道夫が記述したとおり:日頃、大きなことを言う議員でも、ちょっとしか血を出さなかった議員もいた。たくさん出して勢いよく血判を押す議員もいて性格がよく判った。埼玉のある議員は怖がってしまい、一人だけ逃げてしまった。あとで脱会した議員は、血判の押し方も小さかったようだ。(塩田1988:165)血判のメリットの一つであったのは、青嵐会は有名になるのであろうという希望であったに違いない(河内2009:30)。2.理念に基づいた政策集団青嵐会は派閥ではなく、明らかな理念を持つ政治家の超党派グループとして船出した。会員の接着剤は極端な右翼的思想であったといえる。青嵐会に属する�½会議員は強い反共産主義を抱いていて、憲法改正、再軍備、自主外交、愛�½教育などを求めていた。同時に福祉社会を実現したかった。青嵐会の特徴は、そのグループへの所属者の圧倒的な多数が農漁村地域の出身者で、中核メンバーが選挙に非常に強かったということである。そのおかげで、自身の極端な思想を遠慮なく暴露できたといえる (河内2009:39-40)。青嵐会趣意書は以下のとおりであった:自由民主党は、敗戦のドン底から、驚異的な繁栄を築いてきた。しかしながら、今や歴史の推移とともに、高度経済成長のもたらした物価、公害などもろもろのヒズミを生じているが、われ
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